「むずかしい子は許されなかった子」臨床保育の専門家・野本先生の言葉から考える、子どもの見守りかた。
前編では、子どもの観察の仕方や、保育ならではの子ども理解について、臨床保育の専門家・野本茂夫先生にたっぷりとお話していただきました。
中編では、保育士としても働く、聞き手の三輪が感じている難しさから「子どもを見守る」ということについて、話を伺っていきます。
20分見守ると起こること、見えてくること。
ー 前編では、観察をすることで、子どものことが見えてくる、わかってくるというお話をしてくださって、たしかに子どものことをしっかりと観察することで見えてくるものが変わり、対応の仕方や自分のあり方、保育のあり方が変わっていくだろうなと感じました。その一方で、じゃあ自分はどこまで普段の保育の中で、その姿勢で居続けられるだろうか、とも思ってしまって・・・。たとえば、見守り続けたら1時間でも水をずっとこうやっているんじゃないかなという子どもの姿があったときに、その長さに自分自身が耐えられるんだろうか、見守り続けられるんだろうかと思ってしまいました。
待つことって、簡単なようですごく大変ですよね。同じことを繰り返す、たとえば子どもが一つのおもちゃを何度も何度も箱から出したりしまったりするというようなことをしているとき、大人は、5分、10分は待つんですよ。でも、それが15分も続くとだんだんと不安になってくる。このまま止めなかったら一生続けるんじゃないか、みたいに思えてくるんですね。もちろんそんなことはないんですけど、そのくらいの心配の仕方になってきます。
そして、「もうおしまいだよ」「そんなにやったらおもちゃが壊れてしまうでしょ」と途中で止めてしまう。でも途中で止められると、その子の中ではまた“最初から”始めることになってしまうので、余計同じ行動が続く・・・というようなことが起きてきます。
ー 一度止められてしまうと、その子の中ではゼロになって元に戻ってしまうんですね。
そうです。止められてしまうから、また一からやり直す。私はそういう子どもの姿を見ると、その子が本当にやりたいことをやるところまでいけていないのかもしれないと感じるんです。
ー その子が本当にやりたいことをやるところまでいけていない。どういうことでしょうか?
大人には意味の無い同じことをやっているように見えるんだけれども、実は子どもたちはその繰り返しのなかで、面白い発想や発見みたいなものを見出していて、少しずつ異なることをしていたり、試したりしているんですよね。その繰り返しの中で、その子にとっての“本当の遊び”になってくると言えばいいでしょうか。
だから、遊び始めというのは、自分が本当にやりたいことは何なのかもわからないままやっている可能性もあって、その状態から本当の遊びみたいなものが出てくるまでに、私の経験からすると20分位はかかるように思います。20分その分からないまま遊びを継続してやっているとね、遊びが変わってくるんですよ。
ほいくる編集部・水岡:
以前、自閉スペクトラムの子がタライに入った水を指でずーっとくるくるしていたことがあって、私はこれは泡になったら楽しいんじゃないかと、そこに泡をつくり出してみたんですけど、その子はそうじゃないー!、泡じゃないー!って。それで、そこからまたその子にとっては1からのやりなおしになってしまって・・・ただ待つことの難しさを感じた出来事でした。
野本先生:
たしかに、難しいですよね。子どもの遊びは、一次的な遊び、二次的な遊び、本格的な(本当の)遊びというように、遊びもよく見ているとプロセスがあるんです。子どもが遊びを見つけて作り出していくんだとその過程を見守っていると、こちら側の遊びの見方も変わってくるし、その内に本当に面白い、感動的な遊びが起きてくる。そしてその遊びのプロセスは、個人の中だけで起きるのではなくて、他の子と遊ぶ中でも起きることなんです。
たとえば、一人の子が泥遊びをしていたところに他の子も面白いなと思って集まってくることってあると思うんですけど、その時に、みんながその子と同じように泥遊びをやりたいかといったらそうでもないんですよね。なので、みんなが違う想いでその遊びをしているから、ある子は泥だんごをつくるうちに、投げたり、落として壊したりするようになって、それから泥団子を的当てのように木に当てることが楽しくなるんだけれど、こっちの子はそんな気ないから、「なんでそんなことをするんだよ!」と、いざこざみたいなことが起こる。でも、そこからむしろ、新しいものが生まれてくるんです。つまり、なんとなく泥遊びみたいなことに関心がある子ども達の中で、何かことが起きるとそこに子どもの気持ちが向かっていくので、みんなの関心が一緒になってくるんですよね。そうしているうちに、ばらばらな泥あそびみたいなところから、いざこざを通して他の子との遊びの違いに気付くことになり、自分がやりたかった遊びに目覚め、例えば穴掘り始めて水を流して本格的な川づくりが始まったりする。こちら(大人)が遊ばせてやろうと思って、こうやったら面白いよとか言っても、こうはなりません。
待つということも、子ども主体なんですよね。一歩間違えると、待つんじゃなくて我慢しているだけになってしまう。でも、我慢と待つは違います。
ー 子どもの遊びにはプロセスがあると知ると、「11時半だから給食だよ。片付けましょう」と言ったときに、「まだ遊びたい!」「えー早すぎ!」と伝えてくる子どもたちの気持ちがわかる気がします。
そこまで見えていたら、そこで一度遊びを中断したとしても、「じゃあまたこのあと続きやろうね」みたいなことができますよね。片付けだよと伝えるときにも、「5分待つね」とか、「じゃあそこまでやって、続きはあとでにしようね」、「それが終わったら来てね」というような、今までとは少し違う言い方ができるかもしれない。それができるかできないか、そこにはものすごい雲泥の差があるんじゃないかなと感じています。
むずかしい子は許されなかった子。
そして私は、むずかしいと言われているお子さんたちというのは、(本当の遊びを含めた)やりたかったことをやらせてもらえなかったお子さんなんだと思うんです。わかりにくい子だから、「それは違う違う」とか、「あ、それは手出しちゃダメだよ」というように、大体途中で止められてしまっているんですよね。本当はただいろんなものに関心があって、触ってみなきゃわからない、やってみなきゃわからないと思ってやっているだけなのに。ダメと何度も言われ続け、そのうち、悪いことをする子、困ったことをする子というレッテルを貼られてしまう。
そして、大人はその子が勝手なことをしないように、手を繋いで離さないようにってなっていってしまう。そういうときって、だいたい手首を掴むような形で手を繋いでいることが多いなと思います。でも私は子どもと手を繋ぐとき、小さい子だって、むずかしいと言われる子だって、こうやって(人差し指と中指に掴まってもらうような形)子どもが自分から繋いでもらうようにします。
この繋ぎ方だと、道路を歩くときに危ないんじゃないかとか、どこかに飛び出していっちゃうんじゃないかと思う人もいるかもしれないけど、そんなに危ない手の繋ぎ方ではないんです。安心して掴まっているし、子どももそういう危ない場面では怖いから、しっかり掴まってくれます。そうすると、こちらも「あ、今怖がってるな」とか、「安心しているな」ということがよくわかるんですよね。でも、こうやって手首を掴んでいたら、そういう子どもの気持ちはわかりません。手を繋ぐって、子どもを捕まえてるわけじゃないから。
でも、障がいがある子は特にそうやって扱われていることが多い。やっていることもしょっちゅう止められてばかりだから、本当に自分の思っていること、やりたいことを最後までやり遂げたという経験がほぼゼロなんです。だから、いつも逃げ出したいような行動をする。私は、それが子どものわからない行動をつくっている1つのきっかけになっているかなと思うんですね。
ー たしかに、そんなふうに止められてばかりだと、逃げたくなりますよね。逃げ出したいから、避けようとする行動ばかり起こしてしまうということもありそうです。
子どもは、やりたいことをやり遂げ実現できると、面白かったという充実感ややり遂げたという満足感、自分はできるんだという自信を持てるようになってきます。言ってみれば、幼児期はそういう自分でやり遂げたという体験を何でも経験しながら、人間の基礎・基本になる大切な力、「生きる力」を育んでいる時期だといえますね。
だから、障がいがあるとかないということに変わりなく、どの子にもこの時期にはたくさんやってみる、できたという経験をしていってほしいと願っています。そういう経験が、0と1では全然違うんです。何をやってもダメと言われてやれない、否定ばかりされる、0は絶望ですよ。でも、1回でもそういう経験があると、子どもの中に希望が生まれてきます。
むずかしいと言われる子と関わる中で、そういう「できた」という経験の直後からいつも感じるのは、その子のことややっていることがわかりやすくなるということ。子どもも、「私はやりたいことをそのまま表現できるんだ」、「僕はやれるんだ」って思うんでしょうね。また次もわかりやすく、「これしたいんだ」に変わってくるんですよ。
それがないままいくと、ずーっとわからない子になる。で、むずかしい子になるから、だんだん、こういう子は特別な環境の中でしか生きられないみたいに考えられてしまう。それは本当に不幸なことです。だから、保育でそれを変えていかなきゃいけない。保育には、それを変える力があると、私は信じています。
野本茂夫 先生
臨床保育の専門家
國學院大學人間開発学部准教授、教授を経て、現在は地域の巡回保育相談員、発達相談員をしながら保育者研修会講師、園内研究会講師などを務めている。
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障害児教育と幼児教育を大学で学び、巡回保育相談や園内研で保育のお手伝いや保育者養成の仕事をしてきました。園にうかがい始めたころは、園児に「おにいさんせんせい」と呼ばれたこともありました。その内に「だれのパパなの?」、「おじさんだれ?どこからきたの?」と園児に話しかけられ、やがて「おいしゃさんなの?」、「えんちょうせんせいのおともだちなの?」と尋ねられました。忘れられないのは、年度はじめの頃に幼稚園の年少さんの組に入ったとき「ねんちょうさんなの?」と言われたことです。そして、今では「だれのおじいちゃんなの?」と云われています。思い返すと保育にかかわりはじめてから随分長い時間が過ぎたなあと思うこの頃です。
撮影:雨宮みなみ
写真の一部ご提供:一般社団法人うるの木・wacca
インタビュー場所ご提供:草笛保育園
この記事の連載
臨床保育の専門家・野本先生の考える、保育の「子ども支援」と「子ども理解」。
一人ひとりの子どもたちに幸せな子ども時代を過ごしてほしい、園生活の中でも一人ひとりがその子らしく過ごしてほしいと願うならば、私たちにできることは、読者のみなさんと一緒に考えたり、子どもたちに思いを馳せる時間をつくること。そう考え、今回臨床保育の専門家である野本茂夫先生にお話をお伺いすることにしました。
「どの子にもうれしい保育をしませんか?」臨床保育の専門家・野本先生が提唱する子ども支援のあり方
後編では、障がいのある子がいる保育をどう考えていくのかという視点から、さらに話が深まっていきます。
「よしこせんせいって、まあちゃんのせんせいなんでしょ?」臨床保育の専門家・野本先生番外編
最後に、発達の気になる子とその子に加配としてついた保育士のエピソードを番外編としてお届けします。