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お泊まり保育中に震度6強の地震。語られた「子どもたちの姿」と「先生の想い」。

三輪ひかり
掲載日:2021/04/01
お泊まり保育中に震度6強の地震。語られた「子どもたちの姿」と「先生の想い」。

2011年3月11日に発生した「東日本大震災」から10年。
HoiClueでもこの10年という節目をきっかけに、改めて『保育と災害』について考えたいと、いくつかの企画に取り組んでいます。

保育と災害についての記事

・みんなの園の震災対策〜アンケート結果から考える避難訓練・防災対策〜
・絵本『笑顔が守った命〜津波から150人の子どもを救った保育士たちの実話』〜ほいくる編集部のおすすめしたい一冊〜


そして今回お話を伺ったのは、学校法人リズム学園『はやきた子ども園』で理事長兼園長を務める、井内聖さん。
井内さんは、2018年9月6日午前3時7分に発生した「北海道胆振(いぶり)東部地震」の際、お泊まり保育で園に寝泊まりしていた34人の子どもたちと、震度6強の地震に見舞われた経験があります。

保育をしている時に被災したら、どんなことが起こるのか。
そして、その時私たち保育者はどうすればいいのか。

当時の様子、そして被災後の保育について、とても丁寧に語ってくださった井内さんの言葉から、みなさんと一緒に『保育と災害』について考えられればと思います。

井内 聖 さん

学校法人リズム学園「はやきた子ども園」理事長・園長。
学校法人リズム学園 学園長
はやきた子ども園長(当時)
安平町災害ボランティアセンター副センター長(当時)

震度6強。眠っている子どもたちと、立てないほどの揺れ

ー お久しぶりです。東日本大震災から10年の節目に、ほいくるで『保育と災害』について考えたいと思った時に、すぐ頭に浮かんだのが井内さんでした。対談できること、本当にありがたく思っています。

お久しぶりです。こちらこそお声がけしてくださって、ありがとうございます。


ー 早速ですが、北海道胆振東部地震が起きた日の話からお伺いできますか?ちょうど年長児のお泊まり保育の日だったんですよね。

そうです。2018年9月6日でした。

その2日前、9月4日に実は北海道に台風が上陸していたんです。関西国際空港が水没した台風って覚えてます?あの台風が北海道にきて、その被害が結構あったんですよ。農家のビニールハウスが壊れたり、町内でも木が倒れたりして。僕たちのお泊まり保育は、森の中で行う企画がいくつかあったんですけど、その森でも倒木していました。なので、午前からスタートする予定だったお泊まり会は午後からにして、森を整備したんです。「自然災害って怖いね」って話なんかしながら。まさか地震がくるなんて、その時は思っていなかったので。

その後は順調にお泊まり会が進みました。


お泊まり保育の様子

子どもたちは楽しそうに、森につくったステージでいろんな発表をしたり、BBQや肝試しをして、園に戻り「一日楽しかったね」と言って眠りについたのが、9月5日の夜。

お泊まり会を担当していたのは、担任の先生2名と英語の先生1名だったのですが、先生たちにもしっかりと睡眠をとってほしかったので、夜中だけ僕と副園長が子どもを見守る番をしました。夜中の1時からですね。そのあとですよ、3時7分に揺れがきました。

「揺れたな」と思ったら、その揺れがだんだん大きくなっていって、震度6強になりました。震度6強ってそれまで経験したことがなかったですけど、四つん這いになるのが精一杯で、まず立てません。建物が倒壊するんじゃないかというくらいの激しい揺れ、建物が軋む音がしました。

その時、子どもたちはどうだったかというと寝ているんですよ。保育者や親御さんなら分かると思うんですけど、本気で眠っている子どもは、ちょっとやそっとのことで起きないんです。だから、揺れで起きる子はほぼいませんでしたね。窓ガラスがババババババと大きな音を立てて揺れ響く音と、途中からなり始めた緊急地震速報で徐々に目を覚ましていくという状況でした。


ー 震度6強の大きな揺れ。眠っている園児たち。その時の様子を想像するだけで、胸が苦しくなります。

揺れている間は、僕も副園長も何もできなくて。でも、子どもたちが寝ていた場所がホールだったので、倒れてくるものが何もなかったし、天井のライトもダウンライトで落ちてこないものだったので、「ひとまずここは安全だろう」と思いました。ただ、揺れが収まって、僕と副園長が目を合わせた時にどちらも考えていたのが、「これは亡くなった方がいるんじゃないか」ということでした。それくらい、今までの地震とは違う大きな揺れでしたね。


ー 目を覚ました後の子どもたちは、どんな様子だったのでしょう?

揺れが収まってしばらくしてから、別室で寝ていた先生たちがホールにきたんですけど、「子どもたちが思ったより落ち着いている」と思ったそうです。

僕も、副園長も、「大丈夫だった?」「怖かったよね」という言葉は一言も掛けないようにしていたのがよかったのかもしれません。幼児は「怖かったよね」と聞いたら「こわかった」と答えるし、「大丈夫だった?」と聞いたら、こちらの緊迫感が伝わってしまうと思ったので。ただ、驚いたのは驚いたと思うので、「驚いたね」「目覚めちゃったね」とは言っていました。

ホールにきた先生たちにも、「ああ、〇〇先生。こっちおいでよ」と声を掛けて、緊迫した状況であることを子どもたちが察しないように努めましたね。

僕の記憶には残っていないんですけど、先生たちには「とにかく笑顔で」とも伝えていたみたいです。「怖かったけど、それを聞いて子どもたちの前ではとにかく笑顔でいるようにしようと思った」と言っていました。


保護者、町、そして子どもへの対応

先生たちも合流したので、子どもたちのことは任せて、僕は他の対応をするために職員室へ戻りました。職員室はいろんなものが倒れて壊滅状態でしたが、まず保護者へ情報を発信しなくちゃいけないと思ったので、メールを送りました。一通目は、「生きています」と一言。


ー「生きています」の 一言だけ。

保護者のみなさんがまず知りたいのは、「うちの子は生きているのかどうか」なので。腕の骨が折れていようと、血だらけであろうと、まずは生きているかどうかの安否を少しでも早く知りたいはずなので、一通目はそうしました。

その後、状況をもう少し詳しく確認してから、10分後くらいに「怪我もありません」という二通目のメールを配信しました。情報はスピードが命なのと、大人も混乱していますから、1回の情報量が多すぎると処理しきれないので、シンプルな情報を細めに送ることを意識しました。

メール配信とは別に、Facebookでの投稿もしましたね。Facebookは写真があげられるので、テキストでは伝わらない情報も届けられると思い活用しました。


実際に保護者へ送ったメール


ー 保護者の方にはそのあと、お迎えのお願いをすぐに?

その逆で、「朝になるまで、お迎えには来ないでください」と連絡をしました。というのも、近くに住んでいる保護者がすぐに迎えに来られたんですけど、外の状況を聞いてみると、道路がぐちゃぐちゃだっていうんです。東日本大震災では、子どもを迎えにいっている最中に命を落とした方もいらっしゃいましたし、今回の地震は死者も出ているかもしれないと思っていたので、「ママがいつまでも迎えにこない」とパニックになる子どもの姿も想定しました。だから、地震の状況や被害が詳しく分かるまでは、子どもたちは園で預かることにしたんです。

あと、園舎内の確認をしたところ、物が倒れて散乱しているところもありましたが、窓ガラスが割れたり、倒壊したりしているところはなかったので、すぐに避難所開放をすることにしました。


ー自主的に避難所として園を開放されたのですか。

乳児がいる家庭がどうしているか心配だったのと、「あのお宅、単身赴任だったな」「お父さんが役場の職員だから駆り出されているだろうな」と思い当たる家がいくつかあったので。その時はまだ園は水も出るし、非常用の発電機で電気もどうにかなっていたので、「困っていたらきてください」と開放することにしたんです。

それから一通りの対応や指示を出して、子どもたちのいるホールに戻りました。その時も子どもたちは落ち着いていましたね。先生たちと笑いながら談笑する姿もあったりして。


ー すごいですね。大人でも怖いような状況だったと思うのですが、なぜそんなにも子どもたちは落ち着いていられたのだと思いますか?

これも先生たちにお願いしていたことなんですけど、崩れている部屋とか倒れているものを見せないようにしていたんです。「子どもたちを絶対にこの部屋から出さないで」と。

保護者が迎えにきた時には、他の子には見えないところで引き渡しを行いました。「〇〇ちゃん迎えにきたよ」ということは大声で言わず、その子のそばに行って、「〇〇ちゃんちょっとこっちきて」とそーっと引き寄せて玄関まで連れていく、という感じで。

ただ、やや興奮状態の子もいました。それはそうですよね。園の外には「大地震が発生しました。早来小学校が避難所になっています」という防災無線がバンバン流れていたし、余震もありましたから。でも先生たちはそんな状況の中でも、「地震だね。でもこの建物は大丈夫だよ」と、大丈夫だよ、ここは安心だよということを、笑顔で何度も伝えてくれていました。

もちろん、先生たちも怖かったと思います。でも一生懸命笑顔で対応してくれて、本当に感謝しています。大人が怖がってしまうと子どもたちにもその怖さは伝染していただろうし、その時の恐怖心って一生残るものだと思うので。


地震直後の森の様子


被災後考えた、2つのこと

午前中には、子どもたち全員に無事にお迎えがきて、避難しにきていた方々も、近くの指定避難所へ移動することができました。そのあと僕が考えたのは、2つのことです。1つは子どものこと、そしてもう1つが町のこと。


ー 子どものことと、町のこと。

熊本で保育士をしている方がうちの園に視察に来たことがあったんですけど、その時に「被災中にPTSD(心的外傷後ストレス障害)になった子は、保育園や児童館に来ている子より、家で過ごしていた子に多かった」という話を聞いていたんです。

理由を聞いてみたら、家にいると遊べないからだって教えてくださいました。大規模な地震が起きてしまうと、遊ぶことが不謹慎なことになり、笑うこともなんだかいけないことのようになって、子どもは親にも気を遣うようになると。テレビをつけてもずっと地震のことばかりだし、マスコミは一番深刻な状況のことばかり報道しますから、ひどい状況を何度も何度も目にして追体験し、そうしている間に余震がくる。一番安心できる場所だったはずの家が、遊べない、笑えない、横を見たらお母さんが泣いているという場になってしまう。


ー 大規模な地震だと、状況によっては、学校や園も再開の目処がなかなか立たないから、子どもは他に居場所もありませんよね。


地震直後の町の様子

その通りです。そんな状態で1週間、2週間と過ごしたら、そりゃあ子どもの心は壊れるよなと話を聞いて思いました。そして、その話を思い出して「じゃあ、今回僕たちはどうしよう」と。

ここで町のこととも関連してくるんですけど、迎えに来たあるお母さんに、「先生、いつから子どもを預かってもらえますか?」とも聞かれていたんです。そこの家庭はお父さんがお医者さん、お母さんが看護師さんで、町に2つしかない小さな診療所のうちの1つだったので、それはいつ再開するか気になるよなと思いました。

これは、その家庭に限らずの話でもあって、小さな町なので多くの保護者が何かしらの救援や復旧に駆り出されることになり、園を開けなければ子どもの居場所がなくなってしまうと思いました。


園の向かいにあるサッカー場がドクターヘリの発着場になっていた

子どもが壊れないよう守ることが最優先だし、町のために、災害の復旧にあたる人が動ける状況をつくらなくてはいけない。電気と水がなく、通信インフラも安定していませんでしたが、その3つがないだけで場所(園舎)はある。

「よし、園を開けよう」と決めて、すぐ動き出すことにしました。


全国に助けを求め、震災2日後に園を再開する

水、電気、通信インフラ、それぞれをどうしたかというと、こういう災害のために各園井戸を掘っていたので、水は30キロ離れたところにある姉妹園の井戸から毎日1,000リットル汲んで持ってくることにしました。

電気に関しては、その当時からガソリンで発電するタイプの電気自動車を公用車にしていたので、それで賄うことに。通信インフラは、園児のデータなどはオンラインのクラウドにあげていたので大丈夫で、インターネットもテザリングを使いながらどうにかやることにしました。

ただ、先生が足らないんですよ。現場の先生もみんな被災者ですから、園を開けるといってもそれぞれに家庭もあるし、常日頃から「職場は家族の責任は取れないから、何かある時には家族を最優先にして」とも言っていたので、こんな時に「来てくれ」とは言えませんでした。

それで、Facebookを通じて「保育者が足りないから誰か助けてくれませんか」と呼びかけることにしたんです。


実際の投稿


ー 井内さんのその投稿、今でも覚えています。

そしたら、全国から多くの保育者の方が連絡をくださって。Facebookのメッセンジャーで一人ひとりと連絡を取り、人となりを確認をさせてもらってから実際のボランティアをお願いする、という流れをとりました。

「辛い状況にいる子どもを助けるのは当然のこと」と言ってくださる方もいて、人と人とのつながりや支え合いに、本当に感謝しました。

それで震災の2日後には、園を再開することができたんです。


被災後の子どもたちの姿と、保育者の役割

震災2日後に園を再開したら、園児と小学生合わせて50人位の子どもたちがきました。お子さんと一緒にいたいという保護者の方ももちろんいらっしゃるので、園にくるか家庭で過ごすかは各家庭の判断に任せました。

保育者は、初日は園の職員が僕と副園長も含めて6人。ボランティアの方は30人来てくださいました。


ー 30人もですか!

50人の子どもたちに30人も先生がいるのかって思われるかもしれないですけど、必要なんですよ。なんでかというと、子どもたちが大人から離れられないんです。べったり抱っことか、ずっと手をつないでいる子がたくさんいました。逆に、すごくテンションが高くて、興奮状態で奇声あげて走り回る子もいたりして。みんな「こわい」とは言わないですけど、恐怖や不安な気持ちがあって、その現れだったと思います。

あと、トイレに行くにしても水も自動では流れないですから、毎回終わったあとに柄杓で水を便器にいれて流すということをしていたので、園児一人がトイレに行く度に大人の手が必要でした。地震のあとすぐに、「一人でトイレに行っておいで」とも言えないですし。


ー それは井内さんのお話を伺わないと知ることができなかった、被災後の保育園、子どもたちの姿です。

先生やボランティアの方々の中にも戸惑いはあって、「園長先生、こんな状況でどんな保育をすればいいんですか?」「なにを子どもたちにしてあげればいいですか?」と聞かれたりもしました。


ー なんとお答えしたんですか?

子どもたちの気持ちを受容すること。あとは、保育は生活と遊びだから、今ここにいる子ども達と「何しようか?」「これやったら面白いかもね」って話して、笑って、遊んでいればいいんじゃないのと伝えました。それは、ピタっとくっついているだけかもしれないし、壊れているものを一緒に直すということかもしれない。要は、何かをさせようとか、これしてあげなくちゃと思うのではなくて、どんなことでもいいから「ここで暮らす/遊ぶ」ということができたらいいよねと。

だって、園から一歩外に出たら遊べない状況だったんです。目の前のサッカー場は自衛隊の発着所になっているし、小学校の園庭は自衛隊の野営のテントが建てられている。つい数日前まではサッカーや野球をしていた場所が、遊べない場所になってしまっていました。だったらせめてここにいる時くらい、子どもたちには目一杯遊んでほしいし、それを支えることができるのが保育者なんじゃないかと感じていました。




インタビュー:雨宮 みなみ
取材・文:三輪 ひかり



この記事の連載

「どうすれば命が助かるのかを考える」震度6強の地震を経験し変えた、“避難訓練”の在り方。

「どうすれば命が助かるのかを考える」震度6強の地震を経験し変えた、“避難訓練”の在り方。

2018年9月6日に北海道を襲った、北海道胆振東部地震。安平町にある「はやきた子ども園」でお泊り保育中だった園児と保育者、そして園長の井内聖さんも、震度6強の揺れに見舞われました。
後編は、震災後の気持ちの変化や、やり方と考え方を変えたという避難訓練などについてお話してくださいました。

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