「この子の気持ちが分からない」から始まる、子どもとの新しい関係性〈後編〉
大人が「子ども目線」である必要はない
Conobieを通していろいろな記事を読ませていただいた中で、大人が「子ども目線」である必要はない、という記事がとても印象的でした。
私個人的には、大人がいかに子どもに近づくか(寄り添うか)って、とても大切だと思っていて。
大人はみんな子どもを経験しているから、子どもの頃に振り返ってみるきっかけや余裕があれば、自然と子どもに近付くことってできるんじゃないかなぁ、って。
そうすることで、小さいけれども大きい子どもの姿が、もっと保たれる社会に近付くというか。
保育士さんなら「子どもに目線を近づける」「波長をあわせる」というのは、スキルとして持つことは重要だと思うんです。
技術的なあり方として、子どもと同じ目線でいられる、ということが必要なケースはたくさんあります。
でも、我が子であっても他人ですから、理解できないことがあっても当然ですよね。
他人を完全に理解するなんてすごく難しいことですし、逆に安易に一般論を持ち出して「わかったつもり」でいることの方が、危険なこともある。
そこをどうにか埋めようとする努力から見えてくるものもあるのかもしれませんが、むしろ「この子の気持ちがよくわからない!」ということを一旦受け入れちゃってから始まる関係性のほうが、お互いに素直になれるんじゃないかなと思うんです。
「Conobie」にたずさわる前に、発達障害児の施設で300~400人もの親御さんの育児相談を受けてきて、そういうポリシーが僕の中に芽生えたのかもしれません。
「子どもの気持ちがわからないなんて」と親を批判してしまう風潮がたまにありますが、その点において僕は違和感がありますね。
なるほど。“前提”の部分、大事ですね。
その前提がないと、わかった“つもり”で、わかっていないことに気付くまでに時間がかかってしまうことが、たくさんありそうな気がします。
子どもっておもしろいなぁ。どんな風に見えている(考えている)んだろうなぁ。って、自然に子どもに寄り添えるには、「わからない」という前提があってこそなのかも。
実際の親御さんと接してみて、そういったポリシーが生まれたんですね。
そうですね。
特に一生懸命な親御さんであればあるほど、「育児はこうしなければならない」というのをものすごく考えていらっしゃる。
でも、現実的には時間的制約とか、お金の問題とか、夫婦の問題とか、いろんな事情がありますから、「理想通りにできない理由」が積み重なっていく。できないことで、自分を責める理由が増えて行く・・・。
その辛いスパイラルから、どうやったら降りられるんだろう。といつも考えています。