「家にも外にも居場所がなかった僕を受け入れてくれた。」プレーパークで息を吹き返した少年が、子どもの声を聴く仕事に出会うまで。

子どもと触れ合ったり、子どもにまつわる仕事をしている人たち。
どんなふうに、その世界を一緒にのぞいたり、近づいてみたりしているのでしょうか。
その言葉に、耳を傾けてみる?
彼らの視線のその先を、一緒に見つめてみる?
手で、足で、鼻や舌や肌で、一緒に感じてみる?
それとも…。
体験やエピソードを交えてうかがうお話の中から、子どもの世界に向き合うヒントに出会ってみたいと思います。
今回お話を伺ったのは、神林俊一さん。
「一般社団法人TOKYO PLAY」ディレクター、「一般社団法人プレーワーカーズ」理事、「そとあそびプロジェクト・せたがや」外遊び推進員として活動しながら、長年にわたり子どもたちの声を聴き続けてきました。遊び場づくりや外遊びの実践を通して、「子どもの声を聴くとはどういうことか」を問い続けている実践者です。
そんな神林さんに、子どもを聞く、見つめる、感じる、お話をたっぷりとお聞きしました。
神林 俊一さん
・TOKYOPLAY ディレクター
・そとあそびプロジェクトせたがや外遊び推進員
・一般社団法人プレーワーカーズ 理事
いじめ・不登校の最中、世田谷区の冒険遊び場に出会う。2011年、東京都次世代育成支援事業にて子どもファシリテーターとして子ども300人ヒアリング。
東日本大震災直後、移住をして子どもの心のケアを旗印に宮城県気仙沼市で子どもの遊び場を避難所の方々と立上げる。
日本ユニセフ協会と協働し宮城北部部長として仮設住宅付近で移動型遊び場「プレーカー」を展開。およそ9年半、被災地で伴走支援として住民主体の子どもの遊び場づくりをサポートする。現在は、再び東京に籍をおきながら都内の子どもの外遊びの支援をしつつ、子どもの声を聴く分野で活動中。
「なんなんだこの場所は」と思った、プレーパークとの出会い
_ 神林さんが今の活動をするようになった原点には、どんな出来事や出会いがあったのでしょうか。
いくつか原点はあるんですけど、ひとつは、中学2年生の頃にプレーパークに出会ったことです。

中学生でプレーパークに行きだすって、タイミングとしては遅いほうだと思うんですけど、小学4年生から学校という場がいやになってしまって、引きこもりになったんです。友人関係もうまく築けず、うーんなんかやだなっていう感じで。
そんな僕に当時絡んできた男の子がいて、その子が赤ちゃんの頃からプレーパークの常連で、「とにかくお前は来い」と連れていかれたのが、羽根木のプレーパークでした。
今でもよく覚えているんですけど、「はあ、また連れ回されるのか」と思いながら、夕方、暗くなり始めた時間帯にプレーパークへ行ったんです。
そうしたら、乳幼児の親子がいるなと思ったら、ホームレスのおっちゃんたちや中高生、金髪の若者もいる。しかも、みんなで焚き火を囲んで夕飯をつくっているんですよ。そのすぐ横では小学生たちが水をかけ合って遊んでいて。
プレーパークをよく知らなかった僕からすると、「なんなんだ、この場所」という感じで、早く帰りたいし、「こんなところに連れてこられて大丈夫なのかな」と、本気で思っていました。
でも、ぽつんと座っている僕に、地域のお父さんお母さんや、当時プレーリーダーになったばかりだったメダカ(現・TOKYO PLAY代表理事)たちが、次々と声をかけてくれたんです。「アイツ、口悪いから、何か困っていたらいつでも言ってね」とか「一人でもいつでも来てよ」って。
最初は変な場所だな、変な人たちだなって思っていたんですけど、気づいたら翌日から一人で通うようになっていました。
「居場所がなかった僕」を受け入れてくれた人たち
_ 翌日から一人で毎日、ですか。
1年間どっぷり、週に7日間行きました。
今振り返ると、当時の僕には家の中にも、外にも居場所がなかったんですよね。その時は自覚していなかったけれど、居場所や人とのつながりに飢えていたんだと思います。
そしてそんな僕を、プレーパークのみんなは当たり前のように受け入れてくれて。朝から夜まで一日中いる僕に、「中学生だから力あるだろう」って遊具作りの手伝いという役割をくれたり、ずっと遊んでくれたりしました。

_ プレーパークで過ごす中で、何か印象に残っていることはありますか?
本当にたくさん迷惑もかけたんですよ。
当時、プレーパークは火曜日が休みだったんです。でも僕は行く場所がないから休みの日も行ってしまう。するとメダカが、唯一の休みの日なのに必ず来るんですよ。「ちょっと散歩しに来た」なんて言いながら。子どもの僕は、まさか自分のために来てくれているなんて思いもしないから、「お前も暇だな」なんて言っていたんですけど(笑)。
それから、プレーパークは10時オープンだったんですけど、僕は毎朝9時頃には行っていたんです。メダカは、その時間には来てくれていたし、夜も家に帰りたくない僕と梅ヶ丘のラーメン屋で一緒にご飯を食べてくれて。そんな生活に、ほぼ1年間付き合ってくれたんです。
_ 話を聞きながら、私ちょっと泣きそうです。そんな大人、いるんですね。
家庭環境が複雑だったので、とにかく家にいたくなかった。今の時代では考えられないですけど、プレーパークに泊まることも何度もありました。そのたびにメダカやプレーリーダーたちが一緒にリーダーハウスで寝て、翌朝一緒に起きてくれて。
そうやって過ごす中で、僕はようやく息を吹き返したように遊び始めました。
子どもの声を聴く仕事との出会い
もう一つの原点は、2011年頃の話なんですが、当時は今ほど「子どもの声を聴く」という考え方が広がっていませんでした。川崎市が「子どもの権利条例」を制定して、子どもたちが前文という形で条例に対しての思いを述べたという事例があったくらいで、子どもの声を直接聴くというのは、日本ではそもそも文化としてもないし、僕たちのような遊びの業界でもあんまりなかったんです。
でも、東京都が子どもの声を直接聴こう、子どもの自己肯定感や自尊感情を図ろうと、次世代育成支援東京都行動計画(後期)の調査をすることになりました。その調査をする団体としてTOKYOPLAYが受けることになりました。
当時24歳だった僕は海外へ行く予定で、TOKYO PLAYには関わってはいなかったんだけれど、メダカから声をかけてもらって、プロジェクトに参画することになりました。
そこで、子どもの声の聴き方、チャイルドファシリテーションなどを学んで、初めて仕事として子どもの声を聴くということをしたんですけど、その時に聴いた子どもたちの声がずっと忘れられなくて。
_ どんな「声」だったんですか?
その頃の僕は、プレーパークに出会えてよかったという思いがある一方で、「普通に学校へ行っていたら違う人生だったのかな」という劣等感もどこかにありました。だから正直に言うと、調査を始める前は、プレーパークに来る子や児童養護施設の子どもたちのほうが、自己肯定感は低いんじゃないかと思っていたんです。
でも、結果は逆の場所もあったんですよ。学校や児童館に通っている、ごく普通に見える子どもたちの中に、生きづらさを抱えている子がたくさんいたんです。

例えば、家庭内の困りごとや暴力に触れる話をし出した子どもがいて、そうしたら今度はその隣の子が俺なんかもっとひどいことされてるよ、みたいな、僕の方がひどいよっていうマウント合戦が子どもの中で広がったんです。
「それは先生とか職員さんって知っているの?」と尋ねたら、「誰も知らない」って。みんなの悩みや意見は伝えるけど誰が話したことなのかは絶対に秘密にする、という条件だったからこそ出てきた声だったとも思うんですけど、そういう声が一箇所の施設だけでなく、いろんなところであって。
僕たちが「普通」と思っていた子どもたちの中にも、誰にも言えない苦しさを抱えている子がたくさんいた。その時初めて、「聴いてみないと、本当のことはわからない」ということを知りました。
出会いが、今を生きる力になる
もうひとつ印象的だったのが、養護施設や子どもの遊び場で聴いた声で。過去に何かすごく辛い環境にあったという子は多かったんですけど、その時の子どもたちはどうだったかっていうと、自己肯定感が高い子どももいたんですよ。
素敵な場所や素敵な人に巡り合えたことで、そこで愛着を形成できていたり、少なくともその場所では、その人たちと一緒に、生き生きと今を生きていたんですよね。
_ 「何があったか」よりも、「誰と出会えたか」が大きいということでしょうか。
子どもたちの声を聴きながら、僕自身も思ったんです。 自分もプレーパークという場所や、そこにいた人たちと出会えたから生きてこられたんだなって。 もし出会えていなかったら、どうなっていたんだろうって。
そして同時に、それまで少し距離を置いていた「子どもの遊び場づくり」という世界に、もう少し関わってみてもいいのかもしれない。 そう思うようになっていきました。



子どもを聞く、見つめる、感じる。

子どもと触れ合ったり、子どもにまつわる仕事をしている人たち。 どんなふうに、その世界を一緒にのぞいたり、近づいてみたりしているのでしょうか。 その言葉に、耳を傾けてみる? 彼らの視線のその先を、一緒に見つめてみる? 手で、足で、鼻や舌や肌で、一緒に感じてみる? それとも…。 体験やエピソードを交えてうかがうお話の中から、子どもの世界に向き合うヒントに出会ってみたいと思います。





