第8回 のびのび遊べる環境をつくろう(大人の姿勢編)
こんにちは。今回は前回に引き続き、「のびのび遊べる」ための環境づくりについての実践的な話(園内での調整、保育の軸、保護者への発信など)をしていきます。
前回は環境編として、1「自然に触れて遊ぶことが出来る」、2「子どもが扱いやすいたくさんの素材がある」、3「つくったり、壊したりができる」、4「選択肢がある」、5「適切な危険にふれることができる」の5つの項目をあげました。
子どもがのびのびと遊べるために大切な要素は大きく分けて2つあり、1つ目が上記にあげたハードとしての「環境」。そしてもう1つが、その環境を活かすためのソフトであり、「人材や仕組み(=大人の姿勢)」です。環境と大人の姿勢は両輪であり、どちらかを欠くことのないような視点を持つことが求められるとわたしは考えています。
では、大人の姿勢とはどんなことなのでしょう。
ちょっとわかりやすくお伝えするために、今まで耳にしたことのある事例などをまとめて1つのお話にしてみました。
前述であげたような1〜5の条件を多分に満たした豊かな遊び環境を、園に取り入れたとします。子どもたちは大喜び。さっそく遊びの専門家たちは本領を発揮しはじめました。
まずは、地面の柔らかな土を掘って水を溜め、泥団子づくりを始めました。たくさんの泥団子をつくった子どもたちは草花と一緒に器に盛り付けたりして園内のあちこちに飾ります。「あー、楽しかった!」と素晴らしい遊びの環境での一日は無事に終わり、職員もニコニコと見守り大満足で帰路につきました。
さて、翌日です。事態は一変しています。
まずは園に隣接する民家からの苦情が入っていました。どうやら子どもたちが飾った泥団子が園と民家を隔てる塀の上にあり、一晩の間に風などで転がり落ちてしまったようです。民家側の塀沿いにあった植木鉢が泥だらけになっていたので、気をつけてほしいとのこと。
そして苦情はさらに続きます。ある保護者が職員室にやってきて言いました。「服が汚れて困るから泥遊びはやらせないで欲しい。」と。
その日の職員会議では、もちろんこの泥遊びの話が議題に上がりました。
結果、「泥団子は終わったら壊す」「泥遊びをする日の前日に家庭にはお知らせして、汚れてもいい服を持たせてもらう」といったことが決まりました。
さて、職員会議で決まった内容を取り入れてから数日経ったある日のこと。
あるクラスの子どもから、こんな話を耳にします。「○○先生のクラスは泥団子禁止なんだって」!!!
そして今度は、以前苦情をいただいた民家の方からこんなお言葉をいただきます。「最近、泥遊びしていないの?園庭にたくさん飾ってあった泥団子素敵だったのにねぇ」!!!
極めつけは、前回苦情があった保護者からのこんな言葉。「やっぱり泥遊びは洗濯が大変なので止めて欲しい。」!!!
あの日の職員会議で話し合った内容は、結果的に何にもつながっていないように思われます。では一体どうしたら良かったのでしょう。
このお話は、ハード面の環境があるだけでは子どもがのびのびと遊ぶことは難しく、保育士は様々な課題と向き合う必要が出てくるということ。そして、向き合い方によっては、事柄は更に複雑になってしまうということをお伝えするために、色々な要素を取り入れてまとめてみました。
ここから先では、この話の様な場面に遭遇した場合に着目すべき点について触れていきます。
まず、近隣民家の方。この方はいったい何を真意として伝えてきたのでしょう?
私自身もこれまで何度か経験したケースですが、「遊び全て(この場合は泥団子を残すこと)を止めてほしい」のではなく、その時の「遊び方(塀に泥団子を置きっぱなしにする放置すること)に困っている」という場合があります。単に苦情として受け取り対処することだけでなく、「苦情はチャンス」の姿勢で話の真意を聞けば、禁止をせずに解決する話もたくさんあります。
次に親の苦情です。これは事前に告知をしてもダメで、「泥で遊ばせないで」という話に一点張りだというケースですね。こういったケースには、いくら工夫を伝えてもなかなか伝わらない場合が多くあります。なぜなら、泥遊びを(いや、もっと言えば遊びを)意味のあるものとして捉えておらず、「汚れるか否か」という大人の都合での判断が優先されているためです。
そのため、日頃共に過ごしている子どもたちの様子を通し、専門職ならではの実感のこもった遊びの意義を伝えていくことが、実は保育士にとって一番大切な仕事なのではないかと思っています。
最後は子どもから聞いた「○○先生のクラスは泥団子禁止」です。
「〇〇先生はいいけれど、〇〇先生はだめ」というように、「人の違い」が「できることの違い(許されることの違い)」になっているケースは、よくあるのではないかと思います。しかし、人によってやり方に多少の違いがあるのは当然ですが、個々人の価値観が判断に大きく影響することについては一考の余地が必要です。
例えば今回の場合、「泥団子は終わったら壊す」ということが決まった職員会議での話の中心は「どうするか?」という対処法に終始していて、「なぜ子どもたちに泥あそびをさせてあげたかったのか」という視点が不足しているように感じられます。このなぜ?はきっと、その保育園の大切にしている方針が生み出す一つの「保育の核」たる部分です。この「保育の核」が職員間できっちりと共有されていたら、「泥団子禁止」としてしまった先生の対応は、もっと別のものになっていたのではないかと思います。
さて、今回の大人の姿勢編でみなさんに一番考えていただきたいのが、最後に出た「保育の核」です。みなさん一個人の、「好き嫌い」や「できるできない」などの価値観・技能を超えた「保育の専門家」としての子どもに向き合う姿勢の指針であり判断基準のことを指します。
これは保育士のみなさん個々にもきっとあることですし、園全体のものもあることでしょう。今一度、自身のそして園にとっての「保育の核」は何なのか、その実現のために必要なことは何なのかを見つめなおすきっかけにしてもらい、実行してもらえたら嬉しいです。
あさかの森プレーパークにて。
いただいた廃材を好きに使えるようにしておくだけで、子どもたちのやってみたい気持ちがどんどんと解放されていきます。
前回は環境編として、1「自然に触れて遊ぶことが出来る」、2「子どもが扱いやすいたくさんの素材がある」、3「つくったり、壊したりができる」、4「選択肢がある」、5「適切な危険にふれることができる」の5つの項目をあげました。
子どもがのびのびと遊べるために大切な要素は大きく分けて2つあり、1つ目が上記にあげたハードとしての「環境」。そしてもう1つが、その環境を活かすためのソフトであり、「人材や仕組み(=大人の姿勢)」です。環境と大人の姿勢は両輪であり、どちらかを欠くことのないような視点を持つことが求められるとわたしは考えています。
では、大人の姿勢とはどんなことなのでしょう。
ちょっとわかりやすくお伝えするために、今まで耳にしたことのある事例などをまとめて1つのお話にしてみました。
前述であげたような1〜5の条件を多分に満たした豊かな遊び環境を、園に取り入れたとします。子どもたちは大喜び。さっそく遊びの専門家たちは本領を発揮しはじめました。
まずは、地面の柔らかな土を掘って水を溜め、泥団子づくりを始めました。たくさんの泥団子をつくった子どもたちは草花と一緒に器に盛り付けたりして園内のあちこちに飾ります。「あー、楽しかった!」と素晴らしい遊びの環境での一日は無事に終わり、職員もニコニコと見守り大満足で帰路につきました。
さて、翌日です。事態は一変しています。
まずは園に隣接する民家からの苦情が入っていました。どうやら子どもたちが飾った泥団子が園と民家を隔てる塀の上にあり、一晩の間に風などで転がり落ちてしまったようです。民家側の塀沿いにあった植木鉢が泥だらけになっていたので、気をつけてほしいとのこと。
そして苦情はさらに続きます。ある保護者が職員室にやってきて言いました。「服が汚れて困るから泥遊びはやらせないで欲しい。」と。
その日の職員会議では、もちろんこの泥遊びの話が議題に上がりました。
結果、「泥団子は終わったら壊す」「泥遊びをする日の前日に家庭にはお知らせして、汚れてもいい服を持たせてもらう」といったことが決まりました。
さて、職員会議で決まった内容を取り入れてから数日経ったある日のこと。
あるクラスの子どもから、こんな話を耳にします。「○○先生のクラスは泥団子禁止なんだって」!!!
そして今度は、以前苦情をいただいた民家の方からこんなお言葉をいただきます。「最近、泥遊びしていないの?園庭にたくさん飾ってあった泥団子素敵だったのにねぇ」!!!
極めつけは、前回苦情があった保護者からのこんな言葉。「やっぱり泥遊びは洗濯が大変なので止めて欲しい。」!!!
あの日の職員会議で話し合った内容は、結果的に何にもつながっていないように思われます。では一体どうしたら良かったのでしょう。
このお話は、ハード面の環境があるだけでは子どもがのびのびと遊ぶことは難しく、保育士は様々な課題と向き合う必要が出てくるということ。そして、向き合い方によっては、事柄は更に複雑になってしまうということをお伝えするために、色々な要素を取り入れてまとめてみました。
ここから先では、この話の様な場面に遭遇した場合に着目すべき点について触れていきます。
まず、近隣民家の方。この方はいったい何を真意として伝えてきたのでしょう?
私自身もこれまで何度か経験したケースですが、「遊び全て(この場合は泥団子を残すこと)を止めてほしい」のではなく、その時の「遊び方(塀に泥団子を置きっぱなしにする放置すること)に困っている」という場合があります。単に苦情として受け取り対処することだけでなく、「苦情はチャンス」の姿勢で話の真意を聞けば、禁止をせずに解決する話もたくさんあります。
次に親の苦情です。これは事前に告知をしてもダメで、「泥で遊ばせないで」という話に一点張りだというケースですね。こういったケースには、いくら工夫を伝えてもなかなか伝わらない場合が多くあります。なぜなら、泥遊びを(いや、もっと言えば遊びを)意味のあるものとして捉えておらず、「汚れるか否か」という大人の都合での判断が優先されているためです。
そのため、日頃共に過ごしている子どもたちの様子を通し、専門職ならではの実感のこもった遊びの意義を伝えていくことが、実は保育士にとって一番大切な仕事なのではないかと思っています。
最後は子どもから聞いた「○○先生のクラスは泥団子禁止」です。
「〇〇先生はいいけれど、〇〇先生はだめ」というように、「人の違い」が「できることの違い(許されることの違い)」になっているケースは、よくあるのではないかと思います。しかし、人によってやり方に多少の違いがあるのは当然ですが、個々人の価値観が判断に大きく影響することについては一考の余地が必要です。
例えば今回の場合、「泥団子は終わったら壊す」ということが決まった職員会議での話の中心は「どうするか?」という対処法に終始していて、「なぜ子どもたちに泥あそびをさせてあげたかったのか」という視点が不足しているように感じられます。このなぜ?はきっと、その保育園の大切にしている方針が生み出す一つの「保育の核」たる部分です。この「保育の核」が職員間できっちりと共有されていたら、「泥団子禁止」としてしまった先生の対応は、もっと別のものになっていたのではないかと思います。
さて、今回の大人の姿勢編でみなさんに一番考えていただきたいのが、最後に出た「保育の核」です。みなさん一個人の、「好き嫌い」や「できるできない」などの価値観・技能を超えた「保育の専門家」としての子どもに向き合う姿勢の指針であり判断基準のことを指します。
これは保育士のみなさん個々にもきっとあることですし、園全体のものもあることでしょう。今一度、自身のそして園にとっての「保育の核」は何なのか、その実現のために必要なことは何なのかを見つめなおすきっかけにしてもらい、実行してもらえたら嬉しいです。
あさかの森プレーパークにて。
いただいた廃材を好きに使えるようにしておくだけで、子どもたちのやってみたい気持ちがどんどんと解放されていきます。