「僕たちは心地よい暮らしの塩梅をつくっていく仲間」和光保育園の考える、暮らし人としての関係性と営み。(中編)
今回、取材前に園長の鈴木秀弘さんからこんなお話がありました。
「一番和光らしい時間が現れるのが10時30分頃~お昼までのあいだで、遊びの風景の中に、お昼っぽさが現れ、いつの間にか遊びの潮が引き、お昼の潮が満ちてくるような渚の時間です。子どもたちは、暮らしの流れに誘われるように自らの振る舞いを変化させていき、その振る舞い一つひとつが、また全体の暮らしの流れを創っていくんです。是非、子どもたちの暮らしの場に身を置き、その流れを感じ味わって頂ければ。」
たしかに、ここには時計の針では表すことのできない、穏やかに流れつづける時間がある。・・・たっぷりと和光の暮らし見学をさせてもらう中で感じたことを、園長の鈴木秀弘さんとお話しました。
子どもは自ら選んで育っていく
どうでしたか。
ー すごく良かったです。何が良かったのか言葉にしようと思った時にまずでてきたのは、ここ(和光)には「無理がない」ということでした。言い換えると、ここにいる子ども、大人、みんなの表情と動きがそれぞれに柔らかで穏やかで、和光の暮らしにすごく馴染んでいて。その一つひとつがこの場をつくっているんだなと感じました。
私たちの芯には、「子ども一人ひとりに内包された自ら育つ(生きる)力を信じて支えたい」という想いがあります。 たとえば植物も芽が出た時に、『カニむかし』みたいに早く大きくなってほしいからと「ちょん切るぞ!」とか「引っこ抜くぞ!」と言ったってその命が危ぶまれてしまうだけで、大事なのは適切な陽を当て、水をあげ、豊かな土壌を環境として用意すること。子どもも同じで、自ら育つ(生きる)力があるわけだからそれを信じて支えたいなと思うんです。
園長の鈴木秀弘さん
でもだからといって、極端な例でいえば、無機質で何も変化のないような空間に子どもを放り込んで「あなたの育つ力を信じますよ」と言っても子どもは育ちようがなくて。そこに暑さや寒さ、光と影、風が吹いたり、草木が生えたり、私と違う他者がいて、とても素敵な憧れる人がいてああいう人になってみたいなと思い描いたり、逆にこういう人にはなりたくないなっていうようなことも含めて、心地良いことと心地悪いことがあるのがとても大切なわけです。
そういう凸凹と言いますか、濃淡のある環境の中で、子どもたちは、自ら“選んで“育っていくのだと思います。なので、子どもたちがみずみずしく育っていく環境、土壌を整えていくことが僕たちの仕事だなと考えています。
ー 自ら選んで育っていく。たしかに、無理がないという姿を一つひとつ見ていった時に、小さな人たちも含めて、私をつくるのは私だという自覚と、きちんとそれがその子自身に託されている場面がすごくたくさんあるなと感じました。
特にそれを感じたのは遊びからお昼ごはんへ移ろいでいく場面で、他の保育園だとそこはあくまでも“移行”の時間だからなるべく効率よく済ませることが優先され、大人が前に出ることが多くなりがちですが、和光では時間と子ども自身の役割(動き)がたっぷりと保証されているのが印象的だったんです。
2歳児クラスの小さな人たちも、自分で手を洗うとか、自分が食べるものを自分で選択するというような「私のことを決めるのは(私をつくるのは)私だ」という積み重ねが、あなたはどうしたい?どうする?という大人たちの投げかけと、あなたがやるのよという時間が充分に保証されていることで育まれていて。そこで育まれた「私をつくるのは私だ」という在り方が年齢を重ねるごとに「私たちをつくるのは私たちだ」という段階に移行していくのが和光で過ごすということなんだろうなというのを感じていました。
暮らしを自分たちでつくる和光。年長組の子どもの中には、エプロンをつけてクラスのお昼ごはんの準備を始めてから実際に食べるまで50分ぐらいかける子もいれば、みんなが食べ始めていい匂いが園庭まで漂ってきてから食べに来る子もいた。
自分の分のおひるごはんは自分で取りに行く、2歳児クラスの子どもたち。
まさに、まさに。三輪さんの話を聞いていて思い出したのが、1歳半のカイくんという子のことで。彼は熊出とか箒がすごく好きで、ある春の常緑樹がいっぱい落ちる朝大人たちが掃きに行くと、カイくんも行きたいというので、「カイくん好きだよね。それじゃあ手伝ってくれる?」と担任たちが庭へ連れ出してくれたんです。
それで、大人2人とカイくんとで庭を掃いているんだけど、大人たちは暮らし人としてサッサッサッと美しいフォームで掃いていって、カイくんは大人たちが集めて山になった葉っぱにちょっかい出してとかやっているんだけど、そのうちカイくんのそれも掃く軌道っぽくなってきて。そうしている間も散らかしちゃってるんですよ、でも大人たちは「やめて」とするんじゃなくて、ポンポンポンとカイくんの崩した山を自然に戻していくんです。心地よいものがここには流れてるなと思っていると、カイくんが一際高い山を削ろうとした軌道の先に、マサエさんという大人がちりとりをいい塩梅に差し出したら入ったんですよ。そうしたら、マサエさんが「すごいね、カイくん」って。そう言われた時のカイくんの二カッと笑った顔がとても印象的でした。
やりたいことをやって「すごいね」とか「ありがとう」と言われると嬉しいじゃないですか。それが子どもが暮らしの参加の度合いを深めていく源泉なんじゃないかなと思った出来事の一つでした。
生活を子どものところまで下ろしていく
お昼ごはんを食べるときに、乳児棟(0,1歳児)の大人たちがテーブルを布巾で拭いていると、子どもがおままごとの布を持ち出して拭く真似をするとする。そこで、「もうごはんの時間だからやめて」としたら、参加の架け橋もそこで切れちゃうけれど、「ありがとね」と言って、「でも、この布巾でやってくれるともっと助かるよ」と大人と同じ布巾を渡したとしたら。ちょこちょことしか拭けないだろうから実際は手伝いにならないかもしれないんだけど、それで「ありがとね」って言ってもらえたら子ども自身はまた拭きたくなっちゃいますよね。
そうやって自分のことを、認め響き返してくれる大人たちと共に暮らしている中で、子どもたちは日々大人たち(の暮らしっぷり)に憧れを持って、「こういうふうにやってみたいな」という想いを太らせていくのではと思うんです。そこを大人の仕事だからというふうに切るのではなく、一人ひとりのやってみたいという憧れる力や意欲を頼りに任せられることは任せていく。
人生の初期の頃は大人がやってあげることの方が多いんだけど、やっぱり一人ひとりが主人公ですから、やりたいという意欲を頼りに任せられることは任せていきたい。それはある意味で、私たちの暮らしのなかで必要として生まれる仕事を共同生活者として、担い合うということなのです。このような文脈の流れでいえば、例えば2歳児になる頃には手に取れるところに雑巾を用意しておけば、やりたくなった子たちが自分で手に取ってはじめてくれるんですよ。
それは僕たちなりの言葉で言うと、「生活を子どものところまで下ろしていく」ということなんですけど、箒も大人に言われなきゃ取れないところじゃなくて、子どもたちが取れる場所に置いておいたり、参加したい時にいつでも参加できるという回路が開かれていることは大事にしているんです。
そうしていると、年中さん、年長さんになる頃には、随分と自分たちでできることも増えてきて、任せられることも増えてきて。和光全体の暮らしに参画する度合いも増してくるのです。今日は、「暑いから縁側の日陰で食べよう」「よしずの下の方が気持ちがいいよ」とか、ごはんを食べる場所も毎日ごちゃごちゃと相談しながら決めていく。それは、「今日の心地よい暮らしの塩梅」を共につくっていくプロセスです。
ー 響き返してくれる大人たちに子どもは日々憧れているという話がありましたが、子ども同士の憧れる力もすごく感じました。特に、2歳児は保育園の施設や生活の区切りの中で、0,1歳児と同じ方に区別されることが多いかなと思うのですが、ここでは3,4,5歳の方にいますよね。なんでも自分でやりたいし、やれる力を持っていることを信じ始めてる時期に、憧れを持って真似したいと思う対象として大人だけではなく、3,4,5歳の人たちもいるということがとても大きく影響してそうだなと。
和光では、4,5月をごたごた期と呼んでいて、今までとは少し違う環境や関係に、子どもも大人もごたごたするんです。でもそれは、当然のことだから、それを収めることを目標にするのではなく、ごたごたを十分に過ごそう!という目標のもとに過ごします。
その時期は、ある意味で、大人の出番がすごく増える時期でもあるんですけど、それは、年長さんがいなくなった(卒園した)ということが大きく関わっていることに、あるとき気付いたんです。つまり、3月までは年長さんを中心とする子どもの自治のお陰で収まっていた問題が、大人のところまで届いてくるから、忙しくてしょうがなくなるんです。逆に言うと、3月までは年長さんたちが問題を未然に防いでくれたり、和らげてくれたりしたんですよね。いなくなってより、子どもたちの力を頼り助けられていることを痛感するんですよ。
いなくなって分かると言えば、時々年長さんが出掛けてしまって、当番をやる人がいない日なんかがあって、そんな時は、年中さんや年少さんの気付いた子たちが、自然にその抜けた穴を埋めるかのように補ってくれている姿をよく見ます。「いつその仕事覚えたの?」なんてしらじらしく聞いてみると、「見てたから」って当然のように返事が返ってきます。
ウッディキッズ(あきる野市にある東京都認証保育所)の溝口さんからの受け売りなんですけど、私は「コミュニティの一員であり一因である」という感覚を大切にしていて。
ー コミュニティの一員であり一因である、ですか。
どういうことかというと、私たちはみんなの中の一人という意味の一員でもあるけれど、周囲に影響を与える存在という意味で一因でもあるということ。
つまり、私が私として認められ尊重されているという肯定感と同時に、私が所属するコミュニティ、集団に影響や波紋を及ぼす力を持っているという自覚を持っている、このどちらも感じることが大事なんじゃないかなと。
つまり、私が自分の命の物語を主人公として歩んでいるという実感を持ちながら、同時に私という存在が周りに影響を及ぼしてもいる。更にいえば、周りからの影響によって私の決定が常に変化させられているという「他者に開かれた柔らかな自我」というか、「他者、周囲と繋がりを持った主体性」を生きているという感覚みたいなものが育まれていくことが大事だなと思うんです。
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撮影:雨宮 みなみ
この記事の連載
わこう村で暮らす。ー 和光保育園(千葉県富津市) (前編)
「村づくりをしているんです。」
そう語ってくださった理由がわかるような空間、時間、暮らしが、そこにはありました。
和光保育園の暮らしから見えてきた、「命を輝かせる」つながり。(後編)
中編では、暮らしの中の子どもの姿から、どう「子ども」という存在を捉え、信じているのか、たっぷりとお話してくださった、園長の鈴木秀弘さん。
後編では、印象的だった和光保育園の大人のあり方から、さらにお話を伺っていきます。