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「命の大切さ」と「カエルのしあわせ」〜第52回「わたしの保育記録」大賞〜

新 幼児と保育
掲載日:2020/06/21
「命の大切さ」と「カエルのしあわせ」〜第52回「わたしの保育記録」大賞〜

第52回「わたしの保育記録」応募作品の中から、大賞を受賞した作品をご紹介。

(一般部門)
「命の大切さ」と「カエルのしあわせ」

かほる保育園
田口 恭之



春になると、園庭にはいろいろな生きものが現れる。それに呼応するように黄2組(4歳児クラス・26名)の子どもたちも生きものをつかまえることに夢中になる。ダンゴムシ、アリ、アオムシ、カブトムシ、カマキリ、バッタ……。季節に応じて移り変わる生きものにあわせて、子どもの興味・関心も移り変わっていく。
子どもたちを見ていると、つかまえることが楽しいだけでなく、つかまえた生きものを友達に見せることも楽しいようだ。

「ねえ見て、バッタつかまえたよ」
「ぼくは3びきもつかまえたよ」

数を競い合うのは、自分を大きく見せたい気持ちなのかな。その気持ちもわかるけれど、保育者としてはどうしても気になることがある。つかまえた虫の扱いだ。
子どもたちは虫をつかまえると虫かごに入れる。保育室に入る時間になると、かごから出して逃がす子もいるが、せっかくつかまえた虫を手放したくない気持ちから、室内の前にある「虫を飼うスペース」の場所に虫かごを置いておく子どももいる。
でも翌日、虫かごを見たときには、虫たちは死んでいる。子どもたちは虫の死骸をかごから出して埋葬すると、すぐにまた虫とりを始める。これでいいのだろうか? 「命の大切さ」を子どもたちが感じるにはどうしたらいいのだろうか?

ぼくが出した結論は「虫をつかまえること」だけで終わるのではなく、「虫の生活を知り、虫を飼育すること」にまで子どもたちの興味をひろげていくことだった。
そこでぼくは、子どもが虫をつかまえると、その虫について図鑑で一緒に調べることにした。食べ物、住んでいる場所、家のつくりかた。興味をもったら、子どもが自分で必要なものを揃えて、飼育できるように環境を整えていった。

やがて子どもたちは、虫をつかまえると図鑑で調べ、飼育環境を自分たちでつくり、飼おうとするようになった。でも、子どもたちが最善を尽くしても、虫たちは死んでしまうことが多かった。
子どもたちにきちんと虫の死に向かい合ってほしくて、なぜ死んでしまったのか、その原因を問いかけたりもした。

でも、子どもたちの様子を見ていると、自分の思いが空回りしているように感じてしまう。子どもたちが学んでいるのは、「命の大切さ」ではなく、「つかまえる」→「調べる」→「飼う」→「死ぬ」→「原因追及」→「埋葬」→「つかまえる」……という一連の「習慣」に過ぎないのではないか。
「命の大切さ」を伝えられている実感もないまま、やがて季節は秋から冬になり、園庭からは生きものの気配が消えた。


新年度を迎えて

季節は巡り、再び生きものたちの姿が園庭に現れるころ、子どもたちはクラス替えを経て進級し、半分が青1組になり、ぼくは青1組の担任になった。
今年、子どもたちはどのように生きものに出会うのだろうか? ぼくは子どもたちに「命の大切さ」を伝えられるのだろうか?

そんな気持ちを抱えたまま、子どもたちと過ごしていた6月のある朝、マサルくんが飼育ケースに巨大な生きものを入れて登園してきた。大人の手のひらほどもある巨大なカエル! たちまち子どもたちの輪ができる。

「どこでつかまえたの?」
「大きくてすごいねー!」
「なんかコワい」とそれぞれに自分の思いを口にする子どもたち。
物知りのシンくんは、
「これウシガエルじゃない? カエルは生きた虫を食べるんだよ」
とみんなに説明している。

子どもたちはこの先、このカエルとどんな関係をつくるのだろうか。ワクワクしながら、じっくり見守ることにした。

そして、カエルが来てから初めての週末。心配なのは休みの間、いったい誰がカエルの世話をするのかということだった。クラス担任ふたりで相談したけれど、結論は出なかった。迷ったときは子どもに聞いてみよう。

「ねえ、みんなに聞きたいことがあるんだ。明日から休みになるでしょ。その間誰もエサをやらないと、カエル死んじゃうかもしれないよね。休みの間、どうしたらいいかなあ」
「カエルが死んじゃったら大変だから、逃がした方がいい」とシンくん。
「死んじゃったら天国に行って、もうお母さんたちに会えなくなっちゃう」といったのはリョウくん。そうか、「死ぬ」っていうのは、「お母さんたちに会えなくなること」なんだ。
「休みの間もカエルがエサをとれるようにエサを入れておけばいい」といったのはカオリちゃん。うん、たしかにそうかもしれない。でも、すかさずハルくんがいう。
「カエルは生きた虫を食べるんだよ。(かごの中に水がはってあるので)石の上に生きた虫を置いても、水に落ちて死んじゃうから、カエルは食べられないよ」

子どもたちのさまざまな考えが出揃ったところで、論点を整理してあらためて聞いてみた。

「みんなの話を聞いて、3つくらい方法があると思ったんだ。まず、誰かが家に連れて帰って世話をする。ふたつめは、逃がして自然の中にかえす。そして、3つめは、このまま保育園に置いておく。この3つのなかでみんなはどれがいいと思う?」

実際に聞いてみると、子どもたちの考えは大きくふたつに分かれた。
「自然のなかでは自分でエサを探せるから、その方がカエルはしあわせ」と考える子たち。
「虫かごの方が敵もいないし、絶対にエサがもらえるからしあわせ」と考える子たち。
一年前は虫が死んでもそのまま放っておいた子どもたちがカエルの身になって、カエルの「しあわせ」をこんなに真剣に考えている。そのことに感動して、このままずっと子どもたちの話し合いを聞いていたいような気持ちになってしまった。

けれども、話はいつまでも平行線をたどり、なかなかひとつの結論に行きつかない。でも、この話し合いは結論なしで終わるわけにはいかないんだ。何といってもカエルの命がかかっているのだから。「こんなときは多数決」という考えが一瞬頭をよぎる。

でも、待てよ。それって、子どもたちにとってはどうなのか? 大人はそんなふうに物事を決めるけれど、それではこれまで子どもたちが真剣に考えたことが汲み取られなくなってしまう。それにぼくはもっと見てみたい。「カエルのしあわせ」を考えはじめた子どもたちがこの先どんなふうにこのカエルと関係をつくり、育っていくのかを。

悩んだ末、ぼくはこういった。

「このカエルはまだこのクラスに来たばっかりだから、もう少しこのカエルをクラスで飼ってみたいんだ。逃がすことはいつでもできるから。とりあえず、今日はだれかが家に連れて帰って、月曜日になったら、またクラスに連れてきてほしいんだ」

その意見に賛成して、「家に連れて帰ってもいい」という子どもたちが集まり、誰がかごを持って帰るかを決めた。結局、今週はユウちゃんが連れて帰ることになった。



月曜日、ユウちゃんはニコニコしながら元気なカエルを連れて登園した。再びカエルに会えた子どもたちは、「今度はおれが連れて帰りたい」とすでにワクワクしていた。

でも次の日、カエルとの別れは突然やってきた。朝から雨が降り、どのクラスも室内遊びをしているときのこと。
年少クラスの子が年長の保育室前のテラスに置かれたカエルを見ようとしてケースに触れたとたん、ガチャンと大きな音がしてケースが落ち、カエルが勢いよく逃げ出した。

慌ててつかまえに行こうとして、ぼくはふとまわりを見た。跳ねていくカエルを見ている子どもたちのなかに「つかまえに行かなきゃ!」という雰囲気はなかった。ただただ美しいものを見るようにカエルを見つめている。ぼくは思いとどまり、雨のなかをうれしそうに逃げていくカエルを子どもたちとともに何だか誇らしいような気分で見送った。

「なんかうれしそう」とカズくん。
「ほんとだね」とぼく。

やがてカエルは園庭の茂みのなかに跳び込み、見えなくなった。



「命の大切さ」って何だろう?

ぼくは最初、子どもたちに「命の大切さ」を教えたくて、虫たちの「死」に向かい合わせようとしていた。でも、「死」から考える「生」はどこか抽象的だった。

でも、カエルに寄り添って生きるようになった子どもたちは、抽象的な「命」ではなく、目の前にいる「このカエル」の「しあわせ」について考えるようになっていった。

「カエルのしあわせ」が何か、結局、最後まで答えは出なかった。でも、考えてみれば、「人間のしあわせ」だって同じことだ。何が「人間のしあわせ」か、ひとつの答えが出ないまま、ぼくらはそれをつくろうとして、ともに生きている。そして、それが「保育」なのだろう。子どもたちやいろいろな生きものとともに、何が本当の「しあわせ」なのかわからないまま、対話を重ねて、それに近づこうとすること。そのなかで「しあわせとは、今この瞬間だ!」と思えるような、そんなときを重ねることができたら、そのときこそ「命の大切さ」を言葉ではなく実感として、子どもたちの内に刻み込むことができるのだろうと思う。


受賞のことば

このたびは私の記録を選んでいただき、ありがとうございます。身に余る光栄です。この記録は4歳児クラスのときから悩み続けてきたものです。「子どもたちに、どうしたら命の大切さを教えられるのだろうか」と。そんなときに、子どもたちと対話し、同僚の先生方と対話し、生き物と対話し、大学の先生と対話し、そして、自分自身と対話を重ねてきました。その結果が、子どもの育ちの成長へとつながったのだと信じています。また、4歳児、5歳児とクラスを持ち上がったことで、子どもたちとの空気感の意思疎通が図れたのだと思います。これからも、その瞬間の空気感を大切に、そのときにあったさまざまな対話を重ね、保育の実践記録をとっていけたらと思います。最後になりましたが、この記録に関わっていただいた皆々様に、この場をお借りして感謝の言葉を述べたいと思います。ありがとうございました。



講評

「命の大切さ」と「カエルのしあわせ」を読んで
“保育者になるっていいなあ”子どもとともに成長していく保育者の姿に感動。

「子どもとことば研究会」代表 今井和子


4歳児クラスのとき、子どもたちは「虫を競い合うように捕まえ、調べ、飼い、死なせる。なぜ死んだのかを考え合うが、また捕まえてきて死なせ、埋葬する」。それが一連の習慣のようになっていくことに疑問を感じたまま、田口先生は、「命の大切さ」を伝えられない悩みを抱え、子どもたちと一緒に年長クラスに進級していきます。保育のなかで生じる疑問をご自身の課題として追求する姿勢がいいですね。そして年長組になると、予想外の生き物、ウシガエルと出会い、飼うことになったのですが、そこでいちばん困ったことが「園が休みのときどうするか?」でした。そこで子どもたちが交代でカエルを持って帰ることになりました(選考委員のなかでは「持ち帰ること」すなわち、「もし持ち帰って死んでしまったらどうなるか?」に対する意見が交わされました。結局、事実を伝えられた子どもたちがどう考え判断するか? それが保育なのだから事実としっかり向き合わせることではないかと話し合いました)。
保育にはハプニングがつきものです。誰にも予測できないこのハプニングが日常を転換させてくれます。飼育ケースから、カエルが我が意を得たりとうれしそうに跳びはね、逃げていく姿を目の当たりにした子どもたちが、カエルのしあわせを見たのです! 抽象的な命ではなく、今この瞬間を生き生きと跳びはねる命を実感したのです。
保育って子どもたちと一緒にいろいろな感情を分かち合えること、そして子どもとともに保育者自身が成長できる喜びなのだと、しみじみ思いました。

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