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「子どもの内側から『やりたい』が生まれてくることもあれば、目の前にある環境から『やろうかな』が生まれることもある」ー 造形遊び実践家・矢生秀仁さん ―子どもを聞く、見つめる、感じる。Vol.3【前編】

三輪ひかり
掲載日:2023/04/07
「子どもの内側から『やりたい』が生まれてくることもあれば、目の前にある環境から『やろうかな』が生まれることもある」ー 造形遊び実践家・矢生秀仁さん ―子どもを聞く、見つめる、感じる。Vol.3【前編】

子どもと触れ合ったり、子どもにまつわる仕事をしている人たち。
どんなふうに、その世界を一緒にのぞいたり、近づいてみたりしているのでしょうか。

その言葉に、耳を傾けてみる?
彼らの視線のその先を、一緒に見つめてみる?
手で、足で、鼻や舌や肌で、一緒に感じてみる?
それとも…。

体験やエピソードを交えてうかがうお話の中から、子どもの世界に向き合うヒントに出会ってみたいと思います。

今回お話を伺ったのは、造形遊び実践家の矢生秀仁さん。
「子どもと表現活動」に向き合いながら、保育園・幼稚園、商業施設での造形ワークショップや、こどもの環境デザインの研究に取り組まれています。この4月からは、ほいくるでも連載をしてくださる予定…!

そんな矢生さんに、子どもを聞く、見つめる、感じる、お話をたっぷりとお聞きしました。

矢生秀仁さん
造形遊び実践家

こども環境デザイン研究所代表/絵本作家。
1983年生まれ。保育現場を中心に造形遊びの実践と研修、子どもの姿と取り巻く環境の考察をもとにした執筆や講演を行っている。絵本作家としても活動しており、著作に『たんけんハンドルシリーズ』(偕成社)がある。

この仕事についたきっかけは・・・

いつから自分の一日を自分で決めなくなったんだろう?

高校生の頃、読んでいた小説をきっかけにして「いつから自分の一日を自分で決めなくなったんだろう?」と考えたことがあったんです。そこで記憶を辿ると、通っていた幼稚園が割と自由で「今日は何して遊ぼうかな」と自分で考えて毎日わくわくして過ごしていたことと、小学校一年生からは時間割のある(=他者に決められた)生活をしていたということを思い出しました。

同時に、僕は思い出せるという基盤があったから、自分で決めないという生活に疑問を抱けたし、「自分で決めるってああいうことか」と思えたんだろうな、と。食べたことがある味を「あの味懐かしい」とか、「あの味をもう一度食べたい」と思えるのと同じような感じで。そう考えると、思い出せる時期の一番最初の経験、原体験って大事だなということを強く感じて、そこから幼児教育に関わりたいと思うようになりました。


ー でも矢生さんは、そこから先生(保育士)にはならなかったんですね。

大学時代に小学校へ実習に行ったことが、先生ではない立場から子どもたちと関わりたいと思った一つのきっかけになりました。運動会の練習で行進をしていたときに、ちょっとめんどくさそうにしている男の子が、「何のためにこれってやるんだろう?」って言ったんですよ。この疑問ってすごく大切だし、面白いじゃないですか。そこで一緒に考えはじめたら、二人で注意されてしまって。

多くの学校では、子どもたちは基本的にテストの点数と通知表によって評価されるし、ほとんどの活動は、正解が決まっている。もちろん、◯✖︎がつかないものもありますけど、自分が思っていることを自由に表現するということが、今の日本の教育の中では大切にしづらいのかもしれないという印象を受けました。


ー 矢生さんが高校の時に、「いつから自分の一日を自分で決めなくなったんだろう?」と疑問に思ったこととも繋がっていそうですね。

そうですね。その一方で、幼児期というのは個々の思いや考えを表現することがとても大事にされていたので、幼児期と学童期の「表現のムード」にギャップを感じました。

ちょうどその頃、教育と心理を勉強する学科で表現療法という分野に出会いました。大人になって心の調子を崩した人が、美術だったり、音楽だったり、演劇だったり、何か表現をすることで元気になっていくという方法なのですが、幼児期に大事にされている表現領域とかなり近いものがあるなと思ったんです。

そこで、「あれ?なぜ幼児期に大切にされていた表現が、学童期になるとだんだんと後回しになって、今度は大人になって調子を崩した時に、もう一度大切にされなおすのだろう。表現ってずっと大切にされるものではないだろうか?」と。

ここで僕の言う「表現」とは、「自分の思いや考えを周りの反応や評価を気にせず自由に表現する」という意味です。もちろん、小学校以降も図工や美術で様々な表現方法を教わるのですが、もっと根本的に、「自分」を素直に表現できるムードがあるかどうか。そこがもしかしたら、日本の教育はアンバランスなのかもしれないと考えるようになりました。

そこから、もっと当たり前に自分を表現する機会や場所が子どもの頃から保証されているといいなと考えるようになって。学校教育の外から表現ということに特化したプログラムを子どもたちに出前したらどうだろうと考えついて、幼稚園や保育園、小学校に造形表現のワークショップを出前するということを、大学4年生のときからはじめました。


当時学生時代に開催したワークショップの様子

子どもたちに力がないのではなく、環境が影響を与えている。

ー 実際に子どもたちとワークショップをしてみてどうでしたか?活動をはじめたことで矢生さんの中に変化や感じたことがあればお聞きしたいです。

子どもたちの表現の背景にあるものに、目がいくようになりました。たとえば、心理的な面でいえば、「好きなものをみんなで描いて遊ぼう」という活動をした時に、本当に自分の思うように好きなものを描ける子と、そうは言うけど、このメンバーの中だとこれを描いたら変って言われないかなとか、先生はどういうリアクションするだろうということを気にしながら描く子がいることに気がつきました。クラスの雰囲気とか人間関係が表現に現れてくるんですよね。

想像力の面でも感じたことがあって、「空き箱を使ってロボットを作ろう」というときに、ティッシュ箱を使ってロボットを作った子がいたんですけど、どんなロボットなのかなと思ったら、「ティッシュロボットができたよ」と。別の子は、とうもろこしのお茶の箱でロボットを作って、「とうもろこしロボットができたよ」と教えてくれました。それがいいとか悪いということではないんですけど、変化しないんですよね。ティッシュの箱の穴を見立てて、「ここに電池を入れるんだよ」とか「ここに入って運転できるんだよ」というように想像が広がっていかない。見たものが見たままなんですね。


ー 矢生さんが想像していたよりも、子どもたちの表現が自由ではなかったんですね。

はい。全体的にみれば自由に想像が広がる子の方が多いのですが、そういう子も増えている印象がありました。

そこで、なぜ想像が広がっていかないのだろうと思って、そこからこどもたちに直接、好きなおもちゃや遊びをリサーチしていったら、どうやら子どもたちの周りは、想像を膨らませる余白が少なくなっているんだなということが見えてきたんです。

というのも、最近のおもちゃは技術が進んだ分、細部まで作り込まれているんですよね。

たとえば、僕は子どもの頃ドラゴンボールのカプセルトイが好きだったんですけど、その当時のカプセルトイのフィギアって彩色されていなかったので、自分の頭の中で、想像力で、脳内補正していたんですよ。でも今は、フルカラーで出来上がったものが売られている。

あとはここ10年で、誰でもスマホで動画が当たり前に見られるようになりましたよね。それって例えば、家族で動物園に行った帰り道「ぞうさん、大きかったね。」と親子の会話で想像していたものが、「ねえ、ぞうさん見よう。」といえば、動いている象の動画がぽんっと見られるようになった。

こうした状況を見ていると、完成度の高いおもちゃ、動画やゲーム、どれも魅力的ではあるんですけど、「自分で想像する」という面においては、その機会や時間を減らしてしまってもいるなと思ったんです。

そういう子どもたちの姿を見る中で、子どもの力のあるないということではなくて、環境が大きく子どもたちに影響を与えているんだということに気づきました。

子どもたちはきっと、いつもベストな状態で、暮らしている環境の中で獲得したものが現われているだけ。

そこで、あらためて、こどもを取り巻く環境について考えたり、整理することは大人の大事な役割なんじゃないかと。

僕の場合は、自然環境や建築的な環境デザインというよりも、こどもを取り巻く環境、人的環境だったり、物的な環境だったり、そういう面での環境デザインというものについて考えていきたいなと思うようになりました。

_ その子自身の「想像力」だけではなく「環境」が「表現」に大きく影響を与えていると、子どもたちと関わる中で気づいていかれたんですね。

想像力って自分が見てきたことや聞いてきたことをベースにして作り出していくものじゃないですか。だから普段どんなものを見て、どんな言葉を使って、どんなものに触れているのかがとても大切だし、それがそのまま表現へと繋がっていくんですよね。

子どもたちとの向き合いかた

環境をデザインするとは?

ー 環境をデザインするという視点を持ちながら、子どもと造形的な遊びや活動をするということは、具体的にどういうことを大事にしたり、気をつけたりすることなのでしょうか?

たとえば、保育現場でのこどもの造形活動について、環境デザインという視点でみるなら、お絵かきや工作の道具が子どもたちがいつでも好きなように使えるところに置いてあるかどうか。

道具を使うたびに先生に出してもらわないと使えなかったり、先生のタイミングでしか使えないものになってしまっているのか、それともコーナー保育として環境を設定していたり、ワゴンなどで道具が使いやすく置かれているのかで、こどもたちの活動の自由度は変わりますよね。

また僕たち大人も含めて、活動の動機というのは、自分の内側から「やりたい」が生まれてくることもあれば、目の前にある環境を受けて「やろうかな」と思うこともあります。例えば、描きたいものがあるから「クレヨンでお絵描きしよう」と思う時もあれば、クレヨンやはさみ、画用紙が綺麗に並んでいるのを見て「そうだ。クレヨンでお絵描きしよう」ということもあるわけです。XFそう考えると、素材や道具を見える化して環境を設定するということは、こどもの環境をデザインすることの一つだと思います。

あとは、人的な環境デザインの一つとしては、保育者がどういう意識で、今、自分は子どもに関わるのか / 関わらないのか(見守るのか)その都度、役割を意識することも大事だなと思っています。


ー その都度、役割を意識する・・・どういうことでしょう?

最近、子ども主体という考え方が重視されるようになって、保育者が直接子どもに介入するのではなく、先ほど話したように環境を設定するなどして場をつくったり、見守ったりする“間接”的な関わりとしての役割が大切にされるようになってきましたよね。

僕も保育というのは「子どもの主体性」が大前提だと思っているのですが、一方で、極端に「子ども主体」ということに囚われすぎなくていいとも思っています。なぜなら、時には保育者が“直接”子どもたちに働きかけて新たな出会いをつくるということも、大人の大切な役割の一つだと思うからです。

たとえば僕はワークショップで、ペープサート遊びをよくやるんですが、最初は、それぞれ自分のペープサートを作って、それができたら、家族や友だちも作る。それができたら今度は、自分たちの住む家を作ろう、乗り物を作ろう、遊び場を作ろう・・という風にお絵描きとごっこ遊びがどんどん展開していくんです。

すると、子どもたちは「お絵描きってこんなに自由に遊べるんだ!」という感覚や方法に出会うんですね。

一人で絵を描く楽しさや嬉しさとはまた違う、他者とその世界を共有する楽しさ、それを絵と遊びで発展させる楽しさとの出会いです。

こんな風にワークショップをする時は、「子どもたちに出会いを作る」という役割の意識で遊びを提案しています。(やる・やらないの判断はこどもたち次第ですから、そういう意味ではこれも子ども主体が前提ですが。)

また、「描けないよ」「できないからやって」というような不安な子がいれば、「何回失敗したっていいんだよ。失敗はすればするほど、パワーアップするからね」と言葉で伝えるようにしています。その子たちに「失敗してもいい!」という考え方との出会いになればと思うからです。

もちろん、子どもたちの中でそういう遊びや価値観が自然発生的に生まれることもありますし、わざわざ大人が出会いを作らなくてもいいこともある。だからその都度、子どもたちによって、僕たちの役割は変わるのだと思います。

子どもたちが自分で考えたり、見つけたり、活動していく環境づくりや間接的なサポートをしていく役割の場面もあれば、保育者が直接的に「出会い」を作る役割の場面もある。これは、一人の保育者の中でもその時々によって変わりますし、さらに園全体のチームとしてみれば、ひとりひとり得意な役割だったり、その比重も違う。こうした視点も意識しながら保育をしていくこと、保育者個々の個性やチームのバランスを把握していくことも、人的な環境デザインを考えることの一つではないかと思っています。

後編では、どのように子どもたちの世界を大切にしながらそこへ近づいていっているのか、ワークショップでの矢生さんの在り方から話を伺っていきます。



この記事の連載

「“私はやらない”にも、その子の判断があるんだ」ー造形遊び実践家・矢生秀仁さん ―子どもを聞く、見つめる、感じる。Vol.3【後編】

「“私はやらない”にも、その子の判断があるんだ」ー造形遊び実践家・矢生秀仁さん ―子どもを聞く、見つめる、感じる。Vol.3【後編】

今回お話を聞いたのは、造形遊び実践者の矢生秀仁さん。
前編では、環境デザインという視点から子どもと表現に関わることを決めた理由や、表現活動をする中で気づいた子どもの姿について語ってくださいました。

後編では、どのように子どもたちの世界を大切にしながらそこへ近づいていっているのか、ワークショップでの矢生さんの在り方から話を伺っていきます。